CAD関係のパソコン資格を取得する
... 沖縄人民党結成 ちなみに、7月20日が誕生日の有名人には ズロ・モホリナジ(ハンガリー:画家, 工藝家)、 松登晟郎(大山親方[元])(相撲/大関[元])、 西尾幹二、 長谷川戡洋(秀ノ山親方)(相撲/関脇[元])、 秀香(服飾コメンテーター, モデル[元]) ...

蜜蝋(みつろう)
... 7月20日が誕生日の有名人には T.ライヒシュタイン(スイス:化学者, 副賢皮質ホルモンの研究)、 松登晟郎(大山親方[元])(相撲/大関[元])、 ナムジュン・パイク(白南準)(韓国・米:ビデオアーティスト)、 G.ビニヒ(独:物理学者, 走査トンネル顕微鏡(STM)を開発) ...

4月21日 今日は何の日
... (ソ連:生化学者,生命発生のコアセルベート説を提唱) Aleksandr Ivanovich Oparin [1894年2月18日生] 1986年 松登晟郎(大山親方[元]) (相撲/大関[元]) [1924年7月20日生] 1998年 リオタール (仏:哲学者『ポスト・モダンの条件』)

松登 晟郎(まつのぼり しげお、1924年7月20日 - 1986年4月21日)は大相撲の力士。最高位は大関。
大正13年7月20日現在の千葉県松戸市に生まれる。本名永井福太郎。
小学3年の時には既に体重16貫(60kg)に達し髙登渉 髙登から小学校卒業の折にはぜひとも私の所に弟子入りさせてほしいと頼まれたという。その後引退して大山を襲名した髙登から再度勧誘され入門、昭和16年1月初土俵を踏んだ。四股名は故郷松戸と師匠の現役名髙登にちなんでつけられた。当時「大山親方がすごいのを連れて来たらしい」と評判になった。番付には枩曻(「昇」の「升」が「舛」)福太郎と書かれたがこれは書き手の間違いらしく後に枩登福太郎と訂正された。昭和26年5月新入幕。昭和27年1月から松登。9月には羽黒山政司 羽黒山から金星 (相撲) 金星、昭和28年1月小結で9勝6敗、9月関脇。昭和29年5月は不調だったが場所前に入院した師匠を気遣い負けても勝利報告をしていた。しかし師匠はこれを知っていたのか10日目の朝には心配しないで思い切って取れと発言、これに勇気付けられたのか残り全部勝って9勝6敗、殊勲賞を獲得、これが効いたか大山親方の病状も快方に向かった。昭和30年9月は鏡里喜代治 鏡里と最後まで優勝を争い千秋楽に若乃花幹士 (初代) 若ノ花を高々と吊り上げて土俵の外に運び13勝2敗、1敗の鏡里が千秋楽も勝ったため優勝は逃したが殊勲賞を獲得し場所後大関に推挙された。横綱昇進も期待されたが左足の甲を骨折して新大関の場所である昭和31年1月は5勝10敗と大きく負け越した。その後も本調子は出ず9勝6敗続きでクンロク大関の名で呼ばれる。昭和31年9月より松登晟郎。その後も糖尿病や足の故障に苦しまされ負け越しも見られるようになってきた。しかし大関の陥落基準が3場所連続負越となったためすぐには陥落しなかった。最初の角番となった昭和33年5月には5勝7敗と後がなくなったところでこの場所絶好調、かつて大関に同時に推挙された横綱若乃花に勝ちその勢いで勝ち越すがその後また連続負越で角番。またしても7敗になったところで若乃花に当てられた。今度は負けて大関から落ちることになってしまいその後は平幕に腰を据える。結局大関時代に2桁勝つことはついになかった。昭和36年11月4勝11敗で幕内に残れなくなり引退。年寄名跡は親友である朝潮太郎 (3代) 朝潮の振分を借りたがその後師匠が亡くなり部屋を継承する。
松登晟郎の詳細